都市の暮らしでよみがえる、忘れかけていた故郷の言葉の響き
標準語の海で、故郷の言葉を想う
賑やかな都市の喧騒の中で暮らしていると、日々のコミュニケーションは主に標準語で行われます。仕事でも、友人との会話でも、買い物をする時も、標準語が当たり前です。しかし、故郷を離れて数年、あるいはそれ以上の月日が経つと、ふとした瞬間に、遠い場所で話されていた言葉の響きが心によみがえることがあります。それは、かつて祖父母や両親と交わした会話のかけらであったり、地域特有の表現であったりします。
今回お話を伺ったAさんも、都市で働く少数言語話者のお一人です。ご自身は幼い頃から標準語での教育を受けてこられ、故郷の言葉を話す機会は限られていたといいます。それでも、親戚が集まる時や、年に一度故郷へ帰省する際には、周囲から聞こえてくる言葉の響きに触れてきました。
「子供の頃は、親戚のおじさんやおばさんが何を話しているのか、半分くらいしか分かりませんでした」とAさんは振り返ります。「でも、声の調子や、特定の単語を聞くと、楽しそうに話しているのか、何かを心配しているのか、雰囲気で感じ取ることができたんです。言葉そのものよりも、音としての響きや、それに込められた感情を受け取っていたような気がします」。
心の奥に響く、母語の旋律
都市での生活は、言葉の面でも故郷とは異なります。故郷にいる時は、地域特有の言葉が自然と耳に入ってきましたが、都市ではその機会はほとんどありません。しかし、Aさんは、ある時、意外な形で故郷の言葉の響きに触れることがあったといいます。
「テレビのドキュメンタリーで、私の故郷のことが取り上げられていたんです。取材を受けていた地元の方が、故郷の言葉で話していました。その時、忘れかけていた音の響きを聞いて、胸の奥が温かくなるような、懐かしい気持ちになったんです」とAさんは語ります。その声は、かつて祖父母が話していた声色に似ており、子供の頃に見た故郷の風景や、家族との穏やかな時間が鮮明によみがえったといいます。
また、故郷の家族と電話で話す際、特に年配の方と話す時には、標準語では表現しきれない微妙なニュアンスがあることに気づくそうです。「例えば、標準語の『疲れた』という一言では伝えきれない、その日の出来事に対する深い感情や、体の具合。故郷の言葉でなら、もっと細やかに表現できる単語や言い回しがあるような気がするんです。それがすぐに口から出てこないことに、もどかしさを感じることもあります」。
言葉が繋ぐ、見えない文化の糸
故郷の言葉は、単なるコミュニケーションツールとしてだけでなく、その地域の文化や歴史と深く結びついています。特定の言葉には、その土地の自然や暮らし、人々の考え方が凝縮されています。Aさんも、故郷の言葉に触れることで、自身のルーツや文化への関心を改めて深めたといいます。
「インターネットで故郷の言葉について調べてみることが増えました。標準語に直訳できないような言葉や、独特の言い回しを知ると、『ああ、この言葉には、この地域のこういう考え方が隠されているんだな』と気づくんです。それは、私が知らなかった故郷の一面を発見するような感覚です」。
故郷の言葉を話す機会は限られていますが、その音の響きや、言葉に込められた意味を知ろうとすることは、Aさんにとって、自身のアイデンティティを探求する大切な行為となっています。それは、故郷を離れていても、見えない糸で故郷と繋がっていることを感じさせてくれるからです。
未来へ、言葉の響きを心に留めて
都市での生活の中で、故郷の言葉が日常的に使われることは少ないかもしれません。しかし、ふとした瞬間に心によみがえるその響きは、自身のルーツや、大切な人たちとの思い出と繋がっています。
Aさんは、「流暢に話せるようになるのは難しいかもしれませんが、故郷の言葉の響きを心に留めておきたいと思っています」と語ります。「もし将来、故郷に帰ることがあったら、子供たちにも、この言葉の音を聞かせてあげたい。たとえ意味が全て分からなくても、それが私たちの故郷の音なのだと、感じてほしいと思っています」。
故郷の言葉は、過去から現在へと受け継がれる大切な文化の一部です。たとえ遠く離れていても、その響きは私たちの心の中で生き続け、自身のルーツを再確認させてくれる羅針盤のような存在なのかもしれません。