母語から生まれる物語

文字にできない母語:次の世代へ「声」を届けるために

Tags: 少数言語, 継承, 声, 文字なし, 文化

少数言語の中には、文字を持たずに話し言葉だけで受け継がれてきたものが多く存在します。そうした言葉を母語とする方々にとって、「言葉を伝える」ということは、標準語を話す私たちとはまた異なる感覚や難しさを伴う場合があります。今回は、文字を持たないある少数言語を話す〇〇さん(仮名)に、その言葉と共に生きる日々、そして次世代への継承についてお話を伺いました。

声に宿る言葉の重み

〇〇さんが生まれ育った地域では、文字を持たないある言葉が日常的に話されていました。子ども心に、周りの大人たちが話すその言葉は、空気のように自然なものでした。標準語を学ぶ学校に通い始めて、初めて「言葉には文字がある」ということを意識したといいます。

「学校の教科書には、ひらがなやカタカナ、漢字が書いてありますよね。それが標準語の言葉そのものなのだと知った時、少し不思議な感じがしました。私たちが家で話している言葉は、書くものではなく、聞くもの、話すものだったからです。」

〇〇さんの母語には、いわゆる文字がありません。そのため、古くから知恵や物語、歌などは、文字として書き残すのではなく、「声」に出して語り継がれてきました。夜、祖母が聞かせてくれた昔話、畑仕事の合間に母が口ずさんでいた歌、祭りの時に皆で唱える言葉。それらはすべて、文字ではなく、温かい「声」に乗って〇〇さんの心に刻まれていったといいます。

「私たちの言葉は、音と、そこに込められた気持ちがすべてでした。文字がないからこそ、相手の表情や声のトーン、体の動きなど、言葉以外のものから受け取る情報も多かったように思います。同じ言葉でも、誰がどんな状況で話すかによって、伝わるニュアンスが大きく変わる。そういう、声に宿る繊細な情報が、私たちの言葉の大切な部分でした。」

消えゆく「声」の難しさ

しかし、時代が移り変わり、標準語が主流になるにつれて、〇〇さんの母語を話す機会は減っていきました。特に若い世代では、日常会話で使う人が少なくなっています。文字がないことは、言葉を記録し、多くの人に伝える上での大きな壁となりました。

「標準語なら、辞書を引いたり、本を読んだりすれば言葉を学べます。でも、私たちの言葉は、話している人から直接聞くしかないんです。カセットテープやICレコーダーで録音することはできますが、それでは文字として目で確認することはできませんし、体系的に学ぶのも難しいのが現状です。」

〇〇さんは、自分の子どもたちにも母語を教えたいと考えていますが、それも簡単なことではありません。子どもたちは学校で標準語を学び、友人との会話も標準語です。日常生活で母語を使う機会が少ないため、なかなか身につきにくいと感じています。

「私が子どもの頃は、周りの大人がみんな母語を話していましたから、自然と耳に入ってきました。でも今の子どもたちの周りには、そういう環境があまりありません。文字があれば、絵本を作ったり、教材を作ったり、もっといろいろな方法で伝えられるのに、と思うことがあります。文字がないというのは、言葉が風のように、ふっと消えていってしまうような、そんな不安と常に隣り合わせなのです。」

「声」を未来へ届けるために

それでも、〇〇さんは母語を未来へ繋ぐことを諦めていません。文字がないなら、文字がないなりの方法で、言葉を「声」として次世代に届けるための努力を続けています。

地域で母語教室を開き、子どもたちに歌や物語を「声」で教えています。スマートフォンの録音機能を使って、日常会話や昔話を記録する取り組みも始めました。また、地域の文化活動の中で、母語を使った劇を発表するなど、言葉に触れる機会を積極的に作っています。

「完璧な形で残すことは難しいかもしれません。もしかしたら、言葉の形は少しずつ変わっていくのかもしれません。でも、大切なのは、その『声』を途切れさせないことだと思っています。私たちが親や祖父母から声で受け取った言葉の温かさ、響き、そこに込められた思い。それを子どもたちに、孫たちに、そのままの『声』で届けたいんです。」

〇〇さんの言葉からは、文字を持たない言語を話す方ならではの、言葉に対する独特の感覚と、強い愛情が伝わってきました。「言葉は書くものではなく、聞くもの、話すもの」。その「声」に宿る物語は、私たちに言葉の多様な価値を教えてくれます。そして、たとえ文字がなくても、言葉を未来へ届けようとする人々の静かな情熱が、確かに次の世代へと繋がっていく希望を感じさせてくれました。