暮らしの音に溶けた言葉:私が気づかなかった母語の痕跡
言葉が当たり前だった子供時代
私の故郷には、かつて特定の少数言語が話されていました。私が幼い頃、家の中では祖父母や親戚の間で、その言葉が飛び交っていました。標準語も使われていましたが、特に暮らしに根ざしたこと、例えば畑仕事のこと、季節の移ろい、近所の人とのちょっとした会話などでは、自然とその言葉が出ていたように記憶しています。
子供だった私にとって、それは特別な「言語」という意識ではなく、家の中の「音」の一部でした。朝早くから聞こえるかまどの音、畑を耕す鍬の音、そして、その音に重なるように聞こえる祖父母たちの声。特定の単語や言い回しに、独特の響きやリズムがあったのを覚えています。例えば、「畑に行こうか」という一言にも、標準語とは違う、土の匂いや太陽の光を感じさせるような温かさがありました。
しかし、学校に通うようになると、状況は少しずつ変わっていきました。学校では標準語が使われます。テレビやラジオも標準語です。友達との会話も自然と標準語になっていきました。家でも、私に話しかけるときは標準語が増え、祖父母たちの間でも、私に分からない言葉を使わないようにという配慮があったのかもしれません。言葉は、意識しないうちに私の日常から、静かに、しかし確実に、薄れていきました。
気づかないうちに遠くなった言葉
思春期になり、故郷を離れて都市で暮らすようになると、故郷の言葉を聞く機会はさらに少なくなりました。お盆やお正月に帰省しても、家族との会話はもっぱら標準語です。祖父母はまだその言葉を使っていましたが、私にはもう完全に理解することは難しくなっていました。聞いていると、断片的に分かる単語はありますが、会話の流れを追うことはできません。
その頃は、正直なところ、あまり深く考えていませんでした。「まぁ、方言みたいなものだろう」と軽く捉え、自分は標準語が話せるから困らないと思っていました。祖父母と話すときも、私が標準語で問いかけ、祖父母が標準語で答えてくれる、あるいは私が分からない言葉を使ったときは標準語で言い直してくれる、という形が定着しました。言葉の壁は、あるにはあったのかもしれませんが、それよりも家族と会えた喜びや、共に過ごす時間の温かさの方が勝っていたのです。
失われて気づいた、言葉の重み
言葉が失われたことの大きさに気づいたのは、祖父母が亡くなってからのことでした。故郷に帰っても、あの言葉を聞くことが二度とないのだと痛感しました。それは、単に一つの言語がなくなったというだけでなく、祖父母という存在、そして彼らが生きた時代や文化そのものが、自分の中から遠ざかってしまったような感覚でした。
特に、暮らしの中で当たり前に使われていた言葉が、風景や音と深く結びついていたことに、後になって気づかされました。例えば、特定の山の名前や川の名前、あるいは天気や季節の表現。それらの言葉には、その土地で何代にもわたって培われてきた知恵や感覚が詰まっていました。祖母が庭の草花の名前を呼ぶ声、祖父が天気を見てつぶやく一言。それらは言葉として理解できなくても、音として耳に残り、故郷の風景と一体となって私の心に残っています。
ある時、故郷を散策していると、ふいに子供の頃に耳にした祖母の言葉の響きが蘇ることがありました。それは、風が木々を揺らす音、川のせせらぎ、土を踏む足音といった、暮らしの音に溶け込むようにして、私の心に残っていたのです。言葉そのものを失ってしまったからこそ、その言葉がかつて存在した痕跡、すなわち、暮らしの音や風景の中に溶け込んだ響きや感覚に、ようやく気づくことができたのかもしれません。
心に残る、見えない言葉の痕跡
私はもう、故郷の少数言語を話すことはできません。子供たちにも教えることはできませんでした。言葉という形では受け継げなかったことに、寂しさを感じることもあります。しかし、完全に失われたわけではないとも感じています。
あの言葉が息づいていた暮らしの風景、家族の温かさ、そして言葉に込められていたであろう祖父母の想い。それらは、直接的な言葉の理解を超えて、私の心の中に確かな痕跡として残っています。それは、故郷の山の稜線を見上げたときに感じる静けさであり、畑を耕した土の匂いであり、祭りの太鼓の音であり、そして暮らしの様々な音の中に溶け込んだ、かつての言葉の響きです。
これらの痕跡は、私自身のルーツやアイデンティティと深く結びついています。言葉を話せなくても、故郷を遠く離れて暮らしていても、この見えない痕跡が、私を故郷と繋ぎ止めてくれているように感じています。失われた言葉は、私に故郷の大切さ、そして受け継ぐことの意味を、静かに教えてくれているのです。