言葉はなくても、心に響くもの:故郷の言葉を話せない私たちが受け取った贈り物
失われゆく故郷の言葉、そしてその声を聞けない私たち
日本の各地には、長い歴史の中で育まれてきた多様な言葉が存在します。それらは単なるコミュニケーションの道具としてだけでなく、その土地固有の文化や人々の営み、そして記憶を紡いできた大切な宝です。しかし、時代の変化と共に、そうした少数言語の話し手は減少し、次の世代に受け継ぐことの難しさに直面している地域が少なくありません。
今回お話を伺ったのは、ある少数言語が話される地域で育ったAさんです。Aさんのご両親や祖父母は皆その言葉を話すことができましたが、Aさん自身は幼い頃から標準語での生活が中心となり、故郷の言葉を流暢に話す機会はほとんどありませんでした。故郷を離れて暮らす今、改めて自身のルーツであるその言葉や文化について深く考えるようになったと言います。
Aさんのように、少数言語が話される地域にルーツを持ちながらも、自身は言葉を話せない、あるいは片言しか話せないという方は少なくないでしょう。遠い故郷の響きに耳を澄ませたいと思いながらも、どう向き合えば良いのか分からないと感じている方もいらっしゃるかもしれません。今回は、Aさんが故郷の言葉とどのように向き合い、言葉を超えたところで何を受け取ったのか、その心の内を伺いました。
話せないことへの寂しさ、そして言葉の向こうに見える景色
Aさんが故郷の言葉を意識し始めたのは、祖父母が高齢になり、故郷に帰るたびに会話が難しくなってきた頃だそうです。「もっと話せたら、祖父母の考えていることや昔の話をもっと深く聞けたのに」と、Aさんは寂しさを滲ませていました。同時に、言葉を話せない自分自身に、どこか申し訳ないような気持ちも抱いていたと言います。
Aさんの故郷では、かつては当たり前のように地域の人々の間でその言葉が使われていました。しかし、若い世代ほど話せる人が少なくなり、かつての活気は失われつつあると感じています。「まるで故郷の一部が、ゆっくりと姿を消していくような感覚でした」とAさんは語ります。それは、ルーツを持つ多くの方が感じ得る、胸の内に広がる静かな喪失感なのかもしれません。
しかし、故郷に帰るたびに、Aさんは言葉を話せなくても感じられる大切なものがあることに気づき始めました。例えば、地域の年中行事。言葉の意味が分からなくても、そこに集まる人々の表情や仕草、歌や囃子の響き、そして地域全体に流れる独特の雰囲気は、Aさんの心に強く響いたそうです。
言葉を超えて伝わるもの:暮らしの知恵と人との温もり
Aさんは、祖父母が故郷の言葉で話しているのを聞いているだけで、不思議と心が落ち着いたと言います。全てを理解できたわけではありませんが、その声のトーンや抑揚、繰り返されるフレーズの中に、長年培われてきた暮らしの知恵や、家族への深い愛情が込められているように感じられたそうです。
祖母が畑仕事をしながら口ずさんでいた歌。漁から帰ってきた祖父が語っていた言葉にならないような相槌。それらは、標準語に訳されることのない、その言葉だからこそ伝えられる感覚や情感があったのかもしれません。言葉が分からなくても、二人の穏やかな表情や、何かを分け合う時の自然な仕草から、Aさんは故郷の言葉が育んだ人との温かい繋がりや、日々の暮らしを大切にする姿勢を受け取ったと言います。
また、地域のお祭りで、話せないなりに一生懸命に手伝いをすると、地域のお年寄りたちが言葉は通じなくても笑顔で「ありがとうね」「助かるよ」といったように接してくれた経験も、Aさんにとっては大きな支えとなりました。「言葉が完璧でなくても、心を通わせることができるのだと教えてもらった気がします」とAさんは振り返ります。それは、故郷の言葉が単なる記号の羅列ではなく、その背景にある文化的な価値観や人間関係の中でこそ生きる、温かいエネルギーのようなものだと感じた瞬間でした。
新しい繋がりと未来への希望
Aさんは今、故郷の言葉を「話せるようになる」ことだけを目指すのではなく、「故郷の言葉が息づく文化に触れ続ける」ことを大切にしています。故郷の歴史や言葉にまつわる伝承を調べたり、その言葉で歌われる民謡を聞いたり、地域の行事に積極的に参加したりしています。
言葉を話せない自分を責めるのではなく、言葉を超えた繋がりや、そこから受け取った「心の贈り物」に目を向けることで、故郷への愛着や自身のアイデンティティをより肯定的に捉えられるようになったと言います。それは、失われゆくものへの哀惜だけでなく、今なおそこにある豊かさや、新しい形で続いていく可能性に気づく旅でもありました。
故郷の言葉を話せないとしても、私たちはそのルーツから多くのものを受け取ることができます。それは、古の人々が言葉に託してきた知恵や感情、そして何よりも、その言葉を話し、文化を育んできた人々の温かい心です。Aさんのように、言葉はなくても心に響くものに耳を澄ませることで、私たちは自身のルーツと繋がり直し、未来へと思いを繋いでいくことができるのではないでしょうか。故郷の言葉は、形を変えても、私たちの心の中で確かに響き続けるのです。