言葉が消えた故郷で、身体が覚えていること
言葉が静かになった場所で感じるもの
故郷に帰るたび、空気の匂いが変わるのを感じます。都市の匂いとは違う、土の匂い、草木の匂い。そして、そこに吹く風の音や、遠くで響く川の音。それらは、幼い頃に祖父母の家で感じた感覚と重なります。私の故郷では、かつて私の祖父母の世代までが話していた少数言語が、今はほとんど聞かれなくなりました。私自身も、その言葉を話すことはできません。両親は標準語で育ちましたし、家庭でもその言葉が日常的に使われることはありませんでした。学校でも教わる機会はありませんでした。
祖父母が亡くなり、故郷を離れて都市で暮らすようになり、故郷の言葉に触れる機会は一層少なくなりました。それでも、故郷を思い出すとき、あるいは久しぶりに故郷に帰ったとき、言葉ではない様々な感覚が、私の心に故郷の存在を強く感じさせてくれます。それは、視覚的な風景だけでなく、肌で感じる温度や湿度、耳に届く特定の音、そして嗅覚が捉える特有の匂いといった、身体的な感覚に深く根差しています。
身体に刻まれた記憶と言葉の響き
幼い頃、祖母が私に語りかけてくれる言葉の意味は理解できませんでした。それでも、その声の響き、抑揚、そして話し終えた後の静けさといった「音」そのものは、今でも鮮明に覚えています。優しく話しかけられていること、大切にされていること、そして何かを懸命に伝えようとしてくれていることは、言葉の意味を超えて伝わってきました。祖母の膝の上で聞いたその声は、私にとって安心そのものでした。言葉の意味は失われても、その音の記憶は身体に刻み込まれているようです。
故郷の祭り囃子もそうです。使われていた言葉はわからなくても、太鼓や笛の音色、人々の掛け声の響きには、この土地ならではのリズムとエネルギーが宿っています。それは、身体が自然と覚え、血が騒ぐような感覚です。祭りを通して地域の人々が共有する高揚感や一体感も、言葉の理解とは別の次元で感じ取ることができます。
また、故郷の古い家屋の木材の手触りや、石段の冷たさなども、特別な感覚を呼び起こします。それらの物理的な接触を通して、過去の暮らしや、そこで交わされていたであろう言葉の響きを想像することがあります。祖父母がこの場所で、あの言葉を使って生活していたのだという実感が湧き、自分のルーツとの繋がりを肌で感じる瞬間です。
言葉なきコミュニケーションと受け継がれる文化
故郷には、言葉を話さなくても心が通じ合う瞬間が確かにあります。表情、仕草、そして共に過ごす時間。特に年配の方々と接する際、言葉は通じなくても、温かい眼差しや、黙っていても伝わる気遣いなど、非言語的なコミュニケーションの中に、失われた言葉が宿していたであろう温かさや人間関係の濃密さを感じることがあります。それは、言葉だけでなく、この土地の文化や価値観が、人々の振る舞いや空気感として受け継がれているからかもしれません。
私のように故郷の言葉を話せない世代は少なくありません。私たちは直接言葉を受け継ぐことはできませんでしたが、言葉が育んだ文化や、言葉が形作った人々の温かさ、そしてこの土地固有の感覚を、身体を通して感じ、心で受け止めています。それは、失われた言葉に対する寂しさを感じつつも、自分自身のルーツを深く肯定する経験でもあります。
言葉が静かになった故郷で、身体が覚えている様々な感覚は、私にとって掛け替えのない宝物です。それは、過去と現在、そして自分自身を繋ぐ見えない糸のように感じられます。言葉を直接話すことはできなくても、これらの感覚を通して故郷の物語を感じ、自分の中に息づくルーツを大切にしていきたいと考えています。