世代を越えて失われた、家庭の言葉の風景
家庭の言葉が遠くなるまで
私たちの家庭では、祖父母の世代は当たり前のように故郷の言葉、〇〇語(具体的な少数言語名を想定)を話していました。父や母の世代も理解はできましたが、子どもである私たちには標準語で話しかけることがほとんどでした。それがいつからか、家庭から故郷の言葉の音が薄れていったのか、はっきりとした境目は思い出せません。まるで、気づかないうちに景色が変わってしまったかのような、静かな変化でした。
台所から聞こえた、知らない響き
幼い頃、台所から聞こえてくる祖母と母の会話は、私にとってどこか遠い国の言葉のようでした。楽しそうに笑い合っていたり、真剣な声色になったり、その雰囲気で内容はなんとなく察することはできましたが、話されている言葉そのものを理解することはできませんでした。時折、母が私たちに何かを説明する際に、ぽつりと〇〇語の単語を挟むことがありましたが、それはすぐに標準語に言い換えられました。「これはね、『△△(〇〇語の単語)』って言うのよ」。そう教えてくれても、その単語が私の日常に根付くことはありませんでした。
祖父母は私たち孫にも〇〇語で話しかけてくれましたが、私たちの返事はいつも標準語でした。それでも祖父母は根気強く話しかけ続けてくれましたが、私たちの反応が薄いことに、少し寂しさを感じていたのかもしれません。今思えば、あの時の祖父母の声には、私たちに言葉を届けたい、故郷との繋がりを伝えたいという、強い願いが込められていたように感じられます。
言葉が薄れていく、穏やかな時間
私が成長するにつれて、学校や地域での生活は完全に標準語が中心になりました。家庭での会話も、自然と標準語だけになっていきました。父や母が故郷の親戚と電話で話すときだけ、〇〇語が耳に響きました。その響きは、私にとっては「故郷の音」であり、家族が共有する「特別な時間」の合図のようなものでした。しかし、その特別な時間は、私たちの世代が話す言葉とは切り離された、遠い世界のことのように感じられていました。
家庭から故郷の言葉が薄れていく過程は、喧嘩や対立があったわけではありません。ただただ、穏やかに、そして必然のように進んでいったように思えます。時代の流れ、社会環境の変化、そして何より「子どもに苦労させたくない」「標準語で困らないように」という親心があったのだと思います。その優しさの結果として、私たちは故郷の言葉を話す機会を失い、理解することも難しくなっていきました。
残されたもの、そしてこれから
言葉は失われてしまいましたが、家庭の中には故郷から受け継がれたものが確かに残っています。例えば、特定の行事の際の習慣、家族が大切にする価値観、そして何よりも、言葉を超えた家族の絆です。祖父母や両親が故郷の言葉で語り合っていた空間の温かさ、声の響きに宿っていた愛情は、言葉として理解できなくても、確かに私の心に響いています。
故郷の言葉を話せないことに、寂しさや、ルーツとの断絶を感じることもあります。しかし、それは決して否定的な感情だけではありません。言葉が失われたからこそ、言葉以外で何が受け継がれているのか、家族の歴史の中で言葉がどのような役割を果たしてきたのか、深く考えるきっかけにもなっています。
これから先、故郷の言葉を流暢に話せるようになるかは分かりません。しかし、家庭の中で静かに消えていった言葉の風景を心に留め、それが自分という存在の一部であることを大切にしていきたいと考えています。言葉がなくても、私たちは故郷と繋がり、家族と繋がっている。その静かな確信を胸に、これからも自分のルーツと向き合っていきたいと思っています。