母語から生まれる物語

手触りに残る母語の記憶:日常のモノが語る故郷の声

Tags: 母語, 故郷, 記憶, モノ, 文化

モノが語り出す、静かな記憶

ここでは、かつて多くの人が故郷の言葉で語り合っていた地域で生まれ育った、山田さんにお話を伺いました。山田さんが子どもの頃には、まだお年寄りの多くが故郷の言葉を話されていましたが、時が経つにつれてその機会は減り、今では日常的に故郷の言葉を聞くことはほとんどなくなったと言います。言葉が静かになった故郷で、山田さんはある特別な方法で、失われつつある言葉の「気配」に触れているそうです。それは、身の回りにある日常のモノに耳を澄ますことでした。

祖母の箪笥が語る、失われた音

山田さんのご自宅には、お祖母様が大切に使われていた古い木製の箪笥があります。長年使い込まれたことで木肌はすべすべとして、角は丸みを帯びています。引き出しを開け閉めするたびに、独特の木の軋む音が静かに響きます。

「この箪笥を見るたびに、祖母の姿を思い出すんです」と山田さんは語ります。「祖母がこの引き出しから何かを取り出すとき、きっと故郷の言葉で『あれはあそこに入っているよ』とか、『この着物は大切にしてね』とか、話してくれたんだろうなって想像するんです。その言葉自体はもう聞けないけれど、この手触りや音に、祖母の声や、あの頃の言葉の響きが宿っているような気がしてなりません」。

言葉はもう聞こえなくとも、モノに残された時間、使う人の手の温もり、そしてそれを巡る記憶が、静かに何かを語りかけてくることがある。それは、言葉が失われたからこそ、より鮮やかに感じられる「気配」なのかもしれません。

土間の道具に見る、言葉と暮らしの痕跡

山田さんのご実家には、今はもうあまり使われなくなった土間があり、そこにはかつて農作業に使われていた古い道具がいくつか置かれています。錆びた鍬、使い込まれた鎌、土埃をかぶった箕。それらは、かつて人々がこの地でどのように暮らし、どのように働いていたかを無言で物語っています。

「父や近所のおじさんたちが、これらの道具の名前を故郷の言葉で呼びながら、使い方を教えてくれたものです」と山田さんは懐かしそうに話します。「土の匂い、道具の重さ、手のひらに馴染む柄の感触。それら全てがセットになって、言葉が心に刻まれたような感覚でした。今ではもう、これらの道具の正確な名前を知る人も少なくなりました。道具はそこにありますが、それを指し示す生きた言葉は、薄れていくばかりです」。

道具は形として残っていますが、それにまつわる言葉、そしてその言葉と共にあった具体的な生活の知恵や感覚は、継承が難しくなっています。それでも、道具の形や手触り、そこに染み付いた土や汗の痕跡は、かつて確かにそこに言葉と共にある暮らしがあったことを、静かに教えてくれるのです。

モノと共に生きる、故郷の言葉の「今」

山田さんは、このような日常の中の古いモノや風景に触れるたびに、失われつつある故郷の言葉に思いを馳せると言います。「私は故郷の言葉を流暢に話すことはできません。でも、この土地で育まれたモノや、そこにまつわる話を聞くことで、言葉そのものは話せなくても、故郷の文化や、そこに生きた人々の心を感じることができるんです」。

言葉が日常から姿を消しても、その言葉が宿っていた人々の営みや感情は、形を変えてモノや風景に残り続けています。山田さんのように、それに「耳を澄ます」ことで、故郷の言葉の「今」に触れることができるのかもしれません。それは、大声で語られる言葉ではなく、静かに、しかし確かに響く、モノたちの語りかける声なのです。失われた言葉を直接知らなくとも、ルーツを感じ、故郷との繋がりを再発見する手がかりは、案外身近なところにあるのかもしれないと、山田さんのお話は示唆しているように感じられました。