母語から生まれる物語

母語を『聞く』ことから始まるルーツ探し:言葉は遠くなっても心は故郷へ

Tags: 少数言語, 母語, ルーツ, 故郷, アイデンティティ, 文化

都市の喧騒の中で、故郷の言葉を思う

私たちが普段何気なく使っている言葉は、その人の育った環境や文化と深く結びついています。しかし、時代の流れや生活の変化の中で、母語から距離ができてしまう方もいらっしゃいます。今回は、ある少数言語が話される地域で育ちながらも、今はその言葉をほとんど話す機会がなくなったという山田さん(仮名)にお話を伺いました。都市部で長く暮らす山田さんが、故郷の言葉をどのように感じ、自身のルーツと向き合っているのか、その静かな思いに耳を傾けます。

山田さんが幼少期を過ごした故郷の地域では、家庭や地域コミュニティの中で、ある特定の少数言語が日常的に話されていました。

「子供の頃は、祖父母や近所のお年寄りたちが、その言葉で楽しそうに話しているのをよく聞いていました。遊びながら、当たり前のように耳に入ってくる音でしたね。意味が全て分かったわけではありませんが、その響きやイントネーションには、温かさや安心感があったように思います。」

しかし、小学校に入ると、授業は標準語で行われます。友人たちとの会話も、次第に標準語が中心となっていきました。成長するにつれて、故郷の言葉を使う場面は家庭内に限られていきます。

「進学のために地元を離れて都市に出てきてからは、さらに標準語が主になりました。仕事でも、地域出身ではない人たちとの付き合いでも、標準語が必要です。故郷の言葉を使う機会は年に数回の帰省の時だけになり、それも親との簡単なやり取りくらいでした。」

意識的に遠ざけたわけではないけれど、自然な流れの中で、山田さんの日常から故郷の言葉は薄れていきました。そして、ある時、故郷の言葉がすらすらと出てこなくなっている自分に気づいたと言います。

「驚きと、少し寂しいような気持ちでした。自分のルーツの一部が、遠くなってしまったような感覚です。特に、親が高齢になり、昔の暮らしの言葉で話すのを聞くと、意味が取りきれない部分もあって、もどかしく感じることも増えました。」

話せなくても『聞く』ことから繋がる故郷

言葉が話せなくなっても、故郷の言葉が山田さんの心から完全に消え去ったわけではありませんでした。たまに故郷へ帰ると、言葉の響きの中に、幼い頃の記憶や、そこに息づく人々の温かさを感じ取ると言います。

「親が昔話をするときの言葉の選び方や、集落のお祭りでお年寄りたちが話す声、それらを聞いていると、単に情報が伝わるだけではない、もっと深い感情や歴史が込められているのを感じます。それは、標準語では表現しきれない、故郷ならではの『空気』のようなものかもしれません。」

言葉の意味を全て理解できなくても、その音、リズム、声のトーンから、話し手の気持ちや、その言葉が育まれてきた土地の文化的な背景が伝わってくることがあるのです。山田さんは、それが、言葉を話せなくなった自分と故郷をつなぐ、大切な手がかりになっていると感じています。

「故郷の言葉は、私にとって、もはや日常会話のツールではありません。でも、故郷の自然の音、風の音、川のせせらぎと同じように、そこに『ある』と感じられる大切な音風景の一部なんです。その音に耳を澄ませることで、故郷の暮らしや、かつてそこで生きていた人々の息遣いを身近に感じられる気がします。」

言葉の向こうに見える文化とアイデンティティ

故郷の言葉に改めて耳を澄ませることは、山田さんにとって、自身のアイデンティティを見つめ直す時間でもあります。言葉の背後にある、地域固有の祭りや年中行事、食べ物、自然との関わり方といった文化的な背景に思いを馳せる機会が増えたと言います。

「例えば、特定の時期にしか使わない言葉や、ある植物について話すときの独特な表現など、そういう言葉には、故郷の人々が自然とどう関わってきたか、何を大切にしてきたかという知恵や思想が詰まっているように感じます。それは、私が受け継いだ大切なものの一部なのだと気づかされました。」

山田さんは、自分が故郷の言葉を流暢に話せるようになるのは難しいかもしれないと考えています。しかし、言葉を『聞く』ことを通して、その背景にある文化や人々の心に触れることはできる。そして、それが、都市で暮らす自分が故郷や自身のルーツとつながるための、自分なりの方法なのだと考えています。

「話せなくなったからといって、故郷とのつながりが全て途切れるわけではありません。言葉の響きに耳を澄ませ、その向こうにある文化や人々の思いを感じ取ろうとすること。それが、私にとっての『ルーツ探し』なのだと思っています。この言葉たちが完全に消えてしまうことがないように、そして、私と同じように故郷の言葉から遠ざかってしまった人たちが、自分なりの方法でルーツと向き合えるように、まずは『聞く』ことから始めてみるのも良いのではないでしょうか。」

山田さんの言葉からは、言葉の喪失に対する静かな寂しさとともに、それでも故郷との絆を大切にしようとする温かい思いが伝わってきました。言葉を「話す」ことだけが全てではなく、「聞く」こと、そしてその言葉が育まれた文化や人々の営みに心を寄せることもまた、自身のルーツと向き合う大切な一歩であることを、山田さんの物語は教えてくれます。