標準語には訳せない心の響き:母語が教えてくれた感情の機微
あの言葉に宿る、自分だけの景色
言葉は、単に情報を伝達するツールだけではありません。私たちが世界をどのように捉え、感じ、そして表現するかに深く関わっています。特に母語は、その言葉が育まれた土地の歴史や文化、人々の感性と分かちがたく結びついており、話し手の内面に固有の色合いを与えていることがあります。
今回は、ある少数言語地域のご出身で、現在は標準語を主に使用しながらも、心の内に母語の響きを持ち続けているという、山田恵子さん(仮名)にお話を伺いました。山田さんは、幼い頃に祖父母や地域の人々から聞いた母語の言葉の中に、標準語ではどうしてもぴったりくる表現が見つからない、独特な感情や感覚を表す言葉がいくつもあると言います。
「あの感じ」を表す母語の言葉
山田さんが例として挙げたのは、「しんみりとした切なさ」とも「温かい懐かしさ」とも少し違う、故郷の山の夕暮れを見たときに胸に広がる、名状しがたい感情を表す言葉でした。標準語で説明しようとすると、「寂しいような、でも心が安らぐような、不思議な気持ち」といったように、複数の言葉を重ねなければ伝えきれない、あるいは伝えたとしても微妙にニュアンスがずれてしまうのだそうです。
「その言葉を聞くと、祖母が夕餉の支度をしながら口ずさんでいた歌や、焚き火の匂い、山の端に沈む夕陽の色まで、ありありと思い出すんです。単なる情景描写ではなくて、その時の自分の心のありよう、周りの空気感まで含めて、その一語が呼び覚ましてくれるような感覚ですね」と山田さんは語ります。
母語の中には、このように、特定の情景や状況、あるいは人間関係における繊細な心の動きを捉えた言葉が存在することがあります。それは、その言葉が長い時間をかけて、その土地の人々の暮らしや感性の中で磨かれ、育まれてきた証でしょう。標準語という共通語のレンズを通すと見えにくくなってしまう、地域の固有の「感じ方」が、母語の言葉一つひとつに宿っているのです。
言葉が薄れても心に残るもの
山田さんは、自分自身が母語を流暢に話す機会は少なくなったと言います。しかし、そうした母語独特の言葉を知っていることで、物事の見え方がより立体的になったと感じるそうです。「標準語で考える時とは違う、もう一つの窓が自分の中に開いたような感覚です。世界を、あるいは自分の感情を、少し違った角度から見ることができるようになりました」
かつては当たり前のように使われていた母語の言葉が、今では聞く機会も減り、知る人も少なくなっています。それは、地域独自の感性や世界観が、静かに姿を消していくことと同義かもしれません。しかし、山田さんのように、たとえ流暢に話せなくても、心の中に母語の響きや、そこから生まれた独特の言葉の感覚を持ち続けている人々がいます。
そうした言葉の断片は、消えゆく母語が私たちに残してくれた、貴重な贈り物なのかもしれません。それは、自分のルーツにある文化や感性を再発見し、自分自身の内面をより深く理解するための鍵となるでしょう。標準語では捉えきれない心の機微を、母語がそっと教えてくれているのです。
次の世代へ伝えたい「感じ方」
山田さんは、ご自身のお子さんには母語を教えることはできませんでしたが、「あの言葉が教えてくれたような、物事の繊細な感じ方や、周りの自然や人との関わりの中で生まれる感情の大切さ」は、言葉ではなく態度や背中で伝えていきたいと考えているそうです。
言葉は形を変え、使う人も少なくなるかもしれませんが、その言葉が培ってきた感性や価値観は、話者の心の中で生き続けることがあります。そして、そうした心の響きは、言葉を直接知らなくても、人から人へと伝えられていく可能性を秘めているのではないでしょうか。母語から生まれた物語は、言葉そのものだけでなく、そこに宿る「魂」として、私たちの心に残り続けるのかもしれません。